先人たちから受け継ぎ未来に繋ぐ使命

株式会社サカモト 代表 大沼毅彦(談)

坂元植林の家は、林業部門を担う坂元植林合資会社と、工務店である株式会社サカモトによる木の家のブランドです。1877(明治10)年、柴田町坂元の山に植林を始めたのは、現社長である大沼毅彦の5代前、大沼半左衛門です。その次の代にあたる大沼源太郎が1908(明治41)年に坂元植林合資会社を設立し、本格的に植林事業を始めました。長きにわたり、先代たちが育て、守り続けてきた坂元の森を未来につないでいくたに、1986(昭和61)年、現社長である大沼毅彦は、自社林の木材を使用した建売住宅の販売を始めました。

このコーナー「森をつくるひと、守るひと」では、「坂元植林の家」ブランドを、林業の歴史や山と人との関わりから伝えます。第1回目は、大沼毅彦が江戸時代に遡る地域の山林との関わりから、新しい拠点「さとのえ」の取組みに繋がる歩みを語ります。(もりのわ編集部)

山林の絵図を紐解きながら確認する先人たちの思い

大沼の先祖は、鎌倉時代にこの土地に移り住んできたようです。江戸時代には、私から数えて11代前の大沼半之丞が、このあたり、柴田郡北方成田の「肝煎(きもいり)」を努めていたという記録が残っています。肝煎は村の世話役のような役職ですね。江戸時代は、植林などの事業として山と付き合うのでは無く、暮らしの中で必要な薪などを調達する場として付き合っていたわけですから、そのあたりの世話などもしていたのでしょうか。その後、4代前の源太郎が、積極的に植林を始めて法人化して、事業として本格化させたわけです。

その当時は、法人で所有した山と個人所有の山を分けてあったのですが、その境界などを記したのは、今のように航空写真や実測を基にしたものではなく、毛筆で描いた、いわゆる絵図面ですね。私が大学を卒業して、こちらへ戻ってきた頃、3、40年くらい前は、法務局に行くと、絵図面のようなものがまだまだありました。境界であるとか、水路であるとか、道であるとかが示されていて、山の管理に使っていました。これは「柴田郡成田村字井戸上絵図と書いてありますね。明治36年のものですね。



これは明治41年、法人化した年に作った植林地の一覧ですね。
例えば「ソウデンチの1番」という位置に、松、杉、檜など、何を何本植えたということが、わかるように書いてあります。その数年後の造林計画を実施した記録もあります。どれも達筆で和紙に書かれていて、昔の人の丁寧で実直な仕事ぶりが伺えます。

こういう昔の古文書は全部、敷地の中にある土蔵にしまってありました。子どもの頃から興味本位で蔵には出入りしていたんですが、埃だらけ、ネズミの糞だらけ。そういうところに書物がたくさん埋れていましたね。ネズミに食われているものもありました。柳行李にどさっと入っていたり、大福帳などは何冊も紐で結んで棚に並べてあったり・・・。
ずっとそのような状態だったのも、まあ、仕方がないんです。私の父の父、つまり私の祖父は戦争で亡くなっていますし、ひいお爺さんも昭和24年に亡くなっているんです。戦後の混乱というのもあったと思いますが、父親も祖父も他界した時、私の父はまだ12、3歳くらいですから。

私もこちらに戻ってきてずっと気にはなっていたのですが、かなりの量なのでずっと手付かずで・・・。震災のときに、蔵もかなり傷んできたので、震災後のことが落ち着いてから重い腰を挙げて、3年かけて整理しました。まずは、全て段ボールに入れたんですが、最終的にはものすごい数になりました。それから、蔵ではなく古民家にも、昔の民具などが大量にあるんです。それらを全て、敷地内の坂元植林合資会社の事務所の2階に移すことを考えたんですが、とてもとても自分一人ではできないので、量がまとまると、年に1回、3年続けて、引越し業者に移動をお願いしたんです。段ボールの中身の整理も始めたんですが、なかなか終わらないですね。

植林関係の記録だけではなく、昔は養蚕をやっていたりしたのでその関係や、それから北海道の記録資料も。明治28年から北海道で農地開墾事業もやっていたので。そういうふうなものを分別して、これからきちんと読み解いて、後世にもつないでいくということが必要だなと思っています。

私たちでは読めない記録もあるので、山形大学の岩田浩太郎先生に解読をお願いしているものもあります。岩田先生は、柴田の隣の村田町に江戸時代の紅花商人の記録の調査に入って、うちの親戚の土蔵も調査されていたので、そういう繋がりで見ていただき、「ちょっと調べて見ましょう」と言ってくださいました。それから古文書の整理には、柴田町の郷土史家、日下龍生先生もお力を貸していただいています。これから何か新しい発見もあるかも知れません。そして何より、記録をきちんと残してくれていた先人たちに感謝ですね。

事業としての林業自体は、明治10年からということはすでに分かっていたんですが、岩田先生に少し記録を紐解いていただいたところ、明治の前から、山の永代使用や、譲渡しの記録などもあるとのことで、山との関わりはかなり古くからあったようです。

林業については、5 代前の半左衛⾨が植林を始め、本格化させたのが4代前の源太郎です。私どもの拠点である柴⽥町は、槻⽊(つきのき)町と船岡町が、昭和 31 年(1956)に合併した町です。源太郎は、明治 41 年から 45年まで、槻⽊町長を務めました。

当時槻木町では、カヤ場や山は町内の各地区が管理していました。地域意識が強く他地区との争いごとも多く、山は荒れ洪水も頻発しておりました。そのような状況を憂い、各地区の住人に働きかけ、共有地を町に移管し、みかえりとして学校の建設を行い、植林を積極的に実施しました。
太平洋戦争後、⾮常に⽊材の値段が⾼い時期があり、町有林が⾮常に財源を潤しました。植林町⻑とあだ名された源太郎の頌徳碑は、槻木の葛岡公園に現在も残っています。


⒉ 
木の家の建築へ事業を拡大

お話ししてきたような歴史があって林業を続けてきて、私の祖父が昭和20年に太平洋戦争で戦死、曽祖父も昭和24年に亡くなり、私の⽗、現会⻑の⼤沼迪義(みちよし)が、終戦後、まだ 12 歳くらいですが、結果的には戦前の家督相続と同じような形で家も事業も継ぐことになったわけです。親戚にも助けられましたし、混乱期の中でも、やはり⼭があったから家も事業も存続できたと思います。⽗も⼤学に進んで、戻ってきてからは、地域の皆さんにも助けられて、家業の林業のみならず、森林組合の事業にも携わりました。また生コン事業も立ち上げました。

高度経済成長の時代には生コン事業は拡大できたんですが、外材も安く輸入されるようになりましたから、林業は、戦後のようにいい時もあったのですが、次第に難しくなってきました。費用も人件費も高くなって事業としては成り立たせるのが難しいんです。私も大学を出てこちらに戻ってきておりましたので、山の材の付加価値を高めるにはどうしたらいいのだろうかと考えまして・・・。それまでは原木で売りに出していたんですが、製材して販売するようにしようと考え、柴田町の製材所に相談して、私も作業を一緒にやったりしながら材木市場に売りに出すこともやってみました。さほど付加価値が付いたという訳でもなかったのですが、時期を同じくして、地元の不動産業者の方から、あなたのところには木があるんだから、建売で分譲してはどうですかと声をかけてもらいました。設計士も紹介するから、と。そういうことであればやってみましょうと、1棟目の建築に取り掛かったんです。

1反歩で4区画の土地です。桁も梁も、70年から80年者の松の木で、土台の木も吟味して製材して建てました。建売住宅は、質の低い細い材でつくるようなものが横行していた時代でしたから、大工さんからも「これは建売の材料ではないわ」と言われていましたね。
うちの質の良さが評価されたのか、2棟目、3棟目もとんとん拍子で買い手がついて、4棟が完売しました。柴田町は、もともと仙台への通勤圏でもあって、当時は宅地開発も進んでいる時期だったので、そういう流れもあったんすね。「サカモトさんは、良い材でつくっている」と評判になりまして、ここの土地でどうか、とか、こっちを造成するからとか、お声をかけていただくようになりました。まだ工務店として事業を始めていない時期なので、大工もいないですし、全て外注です。うちが売主になって、外注して家を建てて買ってもらう。もちろん、木材はうちの山から。当時、坂元植林も斜陽産業で赤字でしたから、この流れができたのはありがたかったですね。柴田町を中心に、1000棟くらいは建てたと思います。

⒊ 紆余曲折を経て、原点に立ち返る

そうして土地建売で数を増やせば利益は上がる訳ですが、山の木も無限にある訳ではないので、自社の山の木を使えなくなってくる。本当に恥ずかしい話ですが、横架材(梁など水平に渡す材)などはベイマツ(北米産の松)を使ったりしたこともありました。乾燥が不十分で、建てた後の木材の収縮が激しくクレームにつながったこともありました。ニーズの多様化も進んできて、そこにうまく対応できなくなってきました。イケイケドンドンで建てて売っていたのが、次第に売れ残ってしまうところも出てきて、棟数も減って、経営的にも苦しくなる。そういう状況も経験しました。

そういう厳しい状況は、私たちは何のために住宅建築を始めたのか、ということを改めて考える機会ともなりました。もともとは自社の山の木を生かしたい、山の木を住宅に活用することで、山を守り続けていきたいという気持ちがあったはずなんですが、次第にそこから外れてしまっていたんですね。一気に立て直すのは難しいけど、徐々に初心に戻る努力をしていこうと、方向性を見定めたのが今から15年くらい前になります。東日本大震災の数年前ですね。




2022年10月に開催した「坂元の森につどう」。坂元の森と、建築中の「さとのえ」を案内し、参加者に説明をする大沼社長(左)

町内で、長年、製材業を営んでいたところがあって、廃業するということになって、それでは一緒にやりましょうと、うちの会社で引き取って製材部門も儲けていました。山の木を生かしたいと簡単には言えますが、実際問題となると、棟数が多くなる場合は、全てうちの山の木で賄えなくなますし、また、外材を使うよりは値段が高くなってしまいます。仙台や仙北へと事業を拡大していく時期もありましたが、何度も社内で話し合いを重ねて、1年間に立てるのは最大24棟という目安をつくったりして、次第に現在の方針になってきています。

山で木をきちんと育てていくと、やはりそれが結果として出てくるものだし、地域の先人たちが育て、守ってきた山なので、その価値を見つめ直していくことや、やはり地元で培ってきた信用やつながりを大切にしていこうという考えや、その辺りを、紆余曲折の中で改めて再確認できてきました。そういう経緯が積み重なって生まれたのが、この春(2023年4月)に竣工した「さとのえ」です。私たちの原点である成田・坂元の森に建てた拠点です。地域の方々や、ここを訪れるお客さんたちと、ゆっくりと育てていきたいですね。(終)

 

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