第4回 まちの在り方、社会の在り方と、建築の役割

自然と共にある設計思想の話|山田貴宏さんインタビュー

坂元植林の家「まちのえ」「さとのえ」の設計をお願いした、ビオフォルム環境デザイン室の山田貴宏さんは、設計はもとより、ご自身の住まいや暮らしぶりにおいても、「自然や環境と調和して、自然の恵みを分かち合う暮らしをつくる」というビジョンを具現化されています。今回は、1つの建築から視座を広げ、まちの在り方。社会の在り方についても語っていただきました。(もりのわ編集部)

(前回記事をお読みになりたい方はこちら

第2章:右肩あがりの時代から循環のデザインへ
第4回:「まちの在り方、社会の在り方と、建築の役割」


「さとのえ」にて施主さんと打合わせ中の山田さん

コロナ禍を経て、都市の建築に問うべきこと

新型コロナウィルスの感染が拡大し、イベントの中止や外出の自粛が呼びかけられ、リモートワークが可能な職場はリモートに移行するなど、働き方においても大きな変化がありました。私自身は、毎日事務所に行っていました。もちろん、マスクをして。スタッフにも、毎日事務所は開けているけど、自宅で仕事をしたい人はそれでいいという話をしていました。駅まで車で行って、駅前の駐車場に車を停めて電車で事務所に通うんですが、通勤は楽でしたね、ガラガラだから。

建築設計者の仲間の間では「自宅にも仕事をするための部屋が必要だよね」という話も出てきていました。今、都内でシェアハウスの設計を進めていたときに、事前申し込み制で、そこに住むことになった人たちと一緒に議論していました。リモートで会議をやったときには「やっぱりこういうご時世だから、家の中にこもって働ける場所があるといい」という話もすぐ出てくるわけです。それは確かに必要なのだろうと思うのですが・・・。

ただ、ちょっとその議論に違和感を覚えてしまいます。とっても大きな話に繋がるのだけど、そもそも、都市そのもののあり方に非常に疑問があるわけです。みんなが、大都市への一極集中の中で都会のオフィスで働いて、そして電車でまた時間をかけて自分の家に帰っていく・・・。その都市のあり方がそもそも問われているのであって、家の中に一部屋設けようという議論の前に、都市そのもののあり方をまずちゃんと議論をした上で「じゃあ家ってどうなの?」というふうに落とし込んでいく筋道が必要だと思うんです。そうでないと、ハウスメーカーの「我が社の家は、ホームオフィスを備えています」という販売戦略に矮小化されて、それで終わりということになってしまうのは残念だと思います。

それから、地方は、これからどうしていくのか、ということも同時に考える必要があると思っています。都心部に一極集中ではなく地方分散でも仕事ができるという状況は少し見えてきたと思うので、それはそれでいい傾向だったなと思うんです。


新型コロナウィルスの感染拡大が続く中、建築中の「さとのえ」の森ではいつもと変わらず自然のサイクルが巡っていた(2022年春)

東京でも、オフィスは余っているわけです。しかもまだ、超高層のオフィスビルなどもつくろうとしているでしょう。この状況をこれからどういう戦略で収束させていくのかが、見えてこない。僕自身は、新しくつくるのはもうやめたらいいのにと思っています。地方の人口は減る中で、東京への一極集中は進むということだから、東京でもオフィスワーク人口は増えるかもしれないけれど、それだって限界があるわけです。

日本は都市経営がとても下手で、23区内で、これだけ超高層ビルがバンバン建っているけど、容積率からいったら、パリとかに全然及ばないんですよ。パリとか5階、6階も、高さがまんべんなくある。ヨーロッパの他の都市もそう。だから、スカイラインは低いんだけど、容積は結構稼いでいるんです。

東京の場合は超高層ビルがランドマーク的にあって、そこだけは容積があるんだけど、他の区に行って駅から少し離れたら、2階建ての木造の建物がダーッと広がっているわけですよね。だから、ならすとたぶん1階あるかないかだと思います。道路まで全部含めて。

パリの場合は、うろ覚えではあるんだけど、平均で2、3階はあると思うんです。東京の土地の使い方とパリの土地の使い方では、2倍以上も差がある。

超高層ビルは富のシンボルのひとつのようになっているけど、それも致し方ない面はあると思います。土地の単価が高いから、上に伸ばさないと、賃料で見合わないという理由もあるのだろうけど。それにしてもあんな高いものは防災面でも弱いし、エネルギーの供給が断たれたら、機能しなくなるわけだし、5、6階とか7階だったら、何かそういう事態が起きても、上下移動は階段でなんとかできるけど、30階は階段で上がれないですよね。

そういうところはきちんと議論したほうが良いと思うんですけど、テーマが大きすぎるからなのか、なかなかそういう議論が起きない状況があります。建築だったら、有力な、非常に見識のある重鎮みたいな人が、そういう議論をやろうと声を上げないと、なかなか進まない日本的な事情もあります。ですが、周りのぼくらのような設計者が、そこは声を上げていかないと、と思っているということですね。

一方で、では建築の一番小さい単位の住宅で何ができるかという話なんですけが、コロナ禍を経て、やっぱり、僕はコロナ禍では、病気や人間の健康の面よりも社会状況がとても脆弱だったということにあらためて気付かされました。また、あらためて問われたのは、個人それぞれがどういう情報を得て、どういうふうに判断するかという、その情報リテラシーみたいなものと、どう判断するのかということ。それが大きく問われた時期だったと思うんです。

個人個人が、自分自身で判断することを忘れて、大きな流れに流されているような状況があると、先ほどの「リモートワークができるオフィス仕様の住宅にしよう」ということになりがちなのではないかと思います。もっと、大切な、考えるべきことがあるはずなのです。個人の精神的な自立とか、たとえば、災害が起きたときに、安心して自立して生きていける場が家の中にあるのか、とか・・・。建築的に言えば、あまりエネルギーに依存しなくても、快適性と省エネ性が備わっている空間になっているか、とか・・・。それから、何かあった時に、隣人と助け合える関係性ができているかどうか。とかね。そんなことが、セーフティネットだと思います。

考えてみると、つい50年前まで、あるいは100年前ぐらいかな、そのへんはあいまいな話ですが、ほとんどの人間は都市に通勤する生活者ではなくて、9割は自分の家で働いていたわけです。農民にせよ、商家にせよ。商家なんてまさにね、家のフロントがお店だったわけで、そこで働きながら、そこで暮らしていたという状況があるわけじゃないですか。農民は、家と畑と空間が全部、混然一体となっていたという状況があったわけですよね。それをここの100年で、全部捨ててきてしまったというのが、いまの状況だと思います。

コロナ禍は、そんなことも思い出させてくれました。人間も生物だから、根源的な拠って立つところは大地と空気と太陽ですよね。それをきちっとグリップしていないと、生物として危ないことになっていくのだと思います。AIとかITとか、そういうものが家の中に入り込んで、それはそれで便利になっていいとは思いますが、それに頼りすぎる傾向が強まると、人間って何なのだろう?という疑問も湧いてきます。

「人間ってなんだろう?建築ってなんだろう?」問いへの1つの答えとしての「さとのえ」の構造。古材も活用し、職人が手で刻み組んでいく。

環境や社会に対して相対性の建築であること

建築設計には、まず、考えるべき、大切なことがあるという話をしましたが、近代の建築は、意匠優先になっていて、そこもやはり少しおかしいと思っています。意匠専門の設計者の中には、構造が分かってない、あるいは環境のことが分かっていない、断熱のことが分かってないという人がたくさんいます。

それに、日本は雨が多い国です。雨の収め方も良くないものが少なくないと思っています。例えば、木を扱う仕事の若手育成の学校の校舎でも、木造の校舎で外に鋼材が現しになっているところがあります。そういう木の使い方では、当然のこととして木が腐っているわけです。日本の気候のこと、素材のこと、まずは、そこをきちんと考えて、そこに向き合ってから意匠を考えるべきではないでしょうか。

都市の出自を考えてみると、元は市場です。交易の場所があって、それが都市に発展したという経緯があります。だからそこに、キャッチ―な建築ができるというのは、ある意味、歴史の中で見ると必然だという見方もできて、そこにあまり目くじら立てることもないかもしれません。

ただやっぱり、いろいろな都市部以外の人間の生存の原資である生産的な場の風景が、そういうことで壊されてしまうのは、僕としてはとても悲しいことです。その地域の気候風土があって、生産が初めて成立するわけだから、それとの連続性ということで考えれば、そこに建つ建築も気候風土を配慮した建築であってしかるべきかなと思います。

僕が知る限りでは、日本以外にほとんど無いと思います。田園風景の中に奇妙な建築が建っているという風景は・・・。どこの国に行ったって、都市部には面白い建築があるかもしれないけど、地方でそういうものが我が物顔で建っている風景って、あんまり見ないですよね。

日本は残念ながら節度がないという面があると思います。やっぱりそれは、建築を作る施主も責任が半分あるし、僕らデザインする建築家の責任も半分あると思います。教養とか、リベラルアーツ的なことが日本から失われている気がします。歴史観も含めて。

僕も無教養の類いに入るけど、だからこそ、50歳を過ぎて今更ながらちゃんと勉強しないといけないと思っています。今日的な状況において、意匠と構造と環境、三位一体の状況が作れる設計者が必要で、そのためにも、学び続け無いといけないと思っています。

もう少し言うと、今、社会的な課題になっていることについて、どう対峙するのかという目線を持った設計者もそんな多くはないと思います。今、喫緊の課題はコミュニティをどうするかとか、人口減少に対してどうするかとか、そういうことではないですか。今でこそね建築ジャーナリズムの中でもそういう視点で特集を組む例が、まあまあ出てきましたが、まだまだ少ないんじゃないかなと思います。そういう意味では、環境や社会に対して「相対性の建築」とも言うべきものを、これからは構想していかなければいけないのではないでしょうか。

自然素材という選択肢

環境建築という分野でさえも、トッピング的に環境要素を足し算していったら環境建築になるという、いまだにそういう認識ですから、そのパラダイムから抜け出して、パーマカルチャー的な、あらゆることを俯瞰してから物事を整えるという発想にシフトしていかないといけないのではないか、と言うことです。では、僕はそれができているかというと、まだ試行錯誤の連続です。「さとのえ」もそうだし、担当した建築については、それが本当に理屈に合っているのか見極めていけないといけないし、そこからまた、学ぶことが大切だと思っています。

最近、僕が思うのは、コンクリートをできるだけ使わない方向にシフトしたいと言うことです。自然素材とか環境建築とか言っているけど、例えば僕が住んでいる里山長屋も、基礎はコンクリートだし屋根には板金も使っています。基礎から上は、ほぼ自然素材でできた家ですが・・・。コンクリートをつくる産業って、実は製造過程でCO₂をたくさん出しているんですよ。燃焼して出すCO₂とは別の化学式で、コンクリートはセメントの生成過程でCO₂をいっぱい出しているんです。セメントがまるっきり悪だと言うわけじゃなくて、ローマ時代のコロッセオとか、ああいうのも、石をセメントで付けているんですよね。でも今は、過度にコンクリートに依存した建築になっているから、できれば僕はコンクリートも徐々にやめていきたいと考えています。

住宅ぐらいのレベルだと、昔ながらの石場建てというのができるようになっています。古民家で見られると思いますが、伝統的な建築工法の一つで基礎工事にコンクリートは使わず、礎石と呼ばれる石の上に直接、柱を立てていくんですが、その構造計算の方法がだんだん確立してきたので、施主さんの予算さえ許せば、石場建ても選択肢の一つになってきていると思います。あれは一種の免震構造になっているので、足元が拘束されていないから、地震がきてもロッキングっていって、カタカタ動くわけですよ。それが結果的に地震力の吸収になっていっています。(編集部補足:その後、山田さんは、都内で小さな住宅を石場建ての構法でつくっていらっしゃいます。ワークショップ形式で「ヨイトマケ」で基礎になる石を据えました。)

基礎のことを話しましたが、屋根の素材についても、自然素材でのチャレンジをやっています。徳島県の神山町では、町営の集合住宅の設計と担当しましたが、その神山で建てた小さな倉庫は、神山の杉皮で葺いています。町内で杉皮を集めるのは大変でしたが、町長も賛同して後押ししてくれたので・・。


杉皮での屋根葺き。ワークショップ途中の様子(徳島県神山町にて)

自然素材か、新建材か、と言うことになると、いろんな見方があると思いますが、新しい技術については、慎重に見定めて使っていく必要があると思います。たとえば外壁の防水シートは、紙でできているんだけど、10年、20年たって剥がしてみると、もうぼろぼろになっていたりします。今でこそ合板だって糊がしっかりしているから、もう少し持ちはいいかもしれないけど、改修工事で40年前、50年前の家を解体すると合板が使われているけど、糊が全く効いていなくて、もうバラバラの状態です。新しい技術とか、ケミカルな素材とかは、いいこともあるけど、持続性の面からも人体への影響の面からも、慎重に見定めて使っていく必要があると思います。

意匠にしても素材にしても、表現としての主張や経済性や効率から考えるのではなく、環境や社会の状況や課題に相対して構想していく。その姿勢を大切にしていきたいと思っていて、それは、この「さとのえ」の構想を進め、設計に落とし込んでいく過程で、あらためて強く認識したことでもあるんです。(第5回に続く)