第3回 「成田の自然とつながる暮らし方」の考察

成田地区「風土性調査」レポート|環境デザイナー 廣瀬俊介

「自然との共生」「地域との共生」を理念として掲げる坂元植林の家が、その理念をさらに家づくりで具現化していくために、2018年から2年という時間をかけて、建築家の山田貴宏さん、環境デザイナーの廣瀬俊介さんと、「成田プロジェクト」と呼ぶ地域の風土性調査を行いました。その調査成果をもとに構想し他のが、新しいモデルハウスの「さとのえ」です。

廣瀬さんにまとめていただいた成田プロジェクトの調査報告書の内容を、一部を抜粋し平易な表現に置き換えながら公開する連載の第3回目は最終回となり、文献調査、現地調査(踏査)、聞き取り調査などの成果を用いてまとめた、成田地区での望ましい自然と繋がる暮らし方についての考察を読者の皆様にも共有します。(もりのわ編集部)
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((過去の連載をお読みになりたい方はこちら…第1回・第2回))

⒈ 現地調査についての報告

2018年9月から2019年7月まで、柴田町成田地区を中心に、かつて成田地区伝いに紅花などの産物が運び込まれた村田町にも範囲を広げ、16箇所の現地調査(踏査)を実施しました。また、聞き取り調査については、歴史研究者や学芸員の方や古民家にお住まいの方など10名から貴重なお話を伺うことができました。
ここでは、現地調査のまとめを写真とともにご覧いただきます。

⒉ 成田地区の風土

図1阿武隈山地全体(左)と北端(右)の表層地質。

柴田町は、南北約170kmにおよぶ阿武隈山地の北端に位置します。阿武隈山地が北部で標高を下げ、東縁の畑川断層と双葉断層の間が陥没して角田盆地ができ、その延長線上にある槻木低地の東側で同山地と高館丘陵の間が途切れ、そこから阿武隈川が太平洋沿岸部へ流れ出てゆきます。このように、柴田町は海岸線から最も近いところで約10kmしか離れていないものの、長大な山地の端にできた凹みにすっぽりとおさまった独特な地勢を持ちます。

 

図2 成田地区周辺の海食崖、縄文遺跡、および製鉄遺跡の分布

「1:25,000 土地分類基本調査図(地形分類図-岩沼)」(宮城県、1982年)に文化庁文化財保護部「全国遺跡地図4 宮城県」(財団法人国土地理協会、1978年)、柴田町文化財保護委員会編『しばたの歴史ガイド』(柴田町教育委員会、2017年)掲載の情報を重ねる。廣瀬加工、2019年。

図2の薄い青色に塗られた低地は、約7000万年前から5000万年前にかけておおむね海面でした。
今からおよそ7万年前から1万8500年前にかけて、地球の公転の変動により日射量が低下して氷期が訪れ、陸地に氷床が広がって海面は今より100mほど下がった時代があります。このとき、各地で川が大地を刻み、急な谷をつくりました。その後、1万2000年前頃には夏の太陽からの放射量が約7%増え、気候が温暖になり、陸地の氷床は解けて沿岸部の谷に海水が入り込んでゆきます。これを溺れ谷と呼びます。そして、7000年前から5000年前にかけて年平均気温が今より約2°C、海面は5mから6mほど上がりました。成田地区周辺には、入間田地区の御釜の海食崖など海の波に侵食された地形が残ります。槻木低地は、槻木湾でした。ただし、現在の柴田町を抜けて流れる阿武隈川の河口から約14km北に河口がある名取川が谷口から石や砂をたくさん吐いて三角州をつくったのに対して、阿武隈川では上流域の盆地にほとんどの岩くずがたまって河口に三角州はできず、海岸線が内陸まで引き込まれることになりました。

 

写真1 高館丘陵を望む

成田地区字坂元前から、御釜の海食崖のある葉坂地区の小丘陵ごしに、高館丘陵を望む。坂元前の田の今日の地盤高さは標高6mを上回る。2018/07/25 撮影

また、この時期、約7000年前から5000年前にかけては約1万5000年前から始まったと考えられる縄文時代の早期に含まれ、柴田町で最も古い松崎貝塚が当時の遺跡に当たります。成田地区周辺には、他に上川名貝塚、金谷貝塚、中居貝塚、深町貝塚、館前貝塚などがあり、槻木貝塚群と呼ばれます。貝塚の下層には海水二枚貝ハマグリ、上層には汽水二枚貝ヤマトシジミが積み重なり、年平均気温が2°C高かった分がときどき上下しながらも少しずつ下降するにつれて海面が下がり、槻木湾は汽水湖となり湿地となっていったことがわかります。成田地区周辺には、集落や遺物散布地(性格が明確でない遺跡)などの縄文遺跡もあります。成田地区には、五間堀川の上流側から地獄沢遺跡、倉元向遺跡、坂ノ下遺跡、坂元遺跡が分布します。倉元向遺跡は、羽山東麓の北向きのゆるやかな斜面に位置し、狩り、木の実や山菜の採集、魚の漁などが行われたことが遺物からわかっています。内湾があった当地では、名取川下流域に比べて生業のなかで漁の占める割合が高かったと考えられています。また、葉坂地区の葉坂戸の内遺跡では、縄文時代に続いて弥生時代、および古墳時代、奈良・平安時代、中世、近世の遺構、遺物が出土し、長期間にわたってつかわれた土地であったことが明らかになっています。葉坂遺跡は、縄文、弥生時代と続けて人々が暮らした丘陵の上の大規模集落でした。

 

図3 阿武隈川と白石川の小集水域に成立した仙南地域の各市町村

丸森町、七ヶ宿町、川崎町は図の枠外に位置。「地理院地図」を廣瀬加工、2019年

その他に、阿武隈山地の基盤をつくる花崗閃緑岩との関係から、製鉄跡の遺跡を図10に載せています。柴田町に3箇所ある銅谷地遺跡、鍛冶屋坂遺跡、風穴遺跡のすべてが同図の範囲におさまっています。製鉄は、7世紀後半に現在の福島県で始められ、8世紀に宮城県でも始められています。その後、古代・中世を合わせて宮城県では10遺跡が調査をされていますが、柴田町に3遺跡が分布することは注目に値すると思われます。8世紀前半には、亘理郡山元町坂元地区の熊の作遺跡から信夫郡(福島市)の人が製鉄関連の作業をしにきていたことを示す木簡が見つかっています。信夫郡と亘理郡は、阿武隈川によって結ばれていたとする説があります。さらに、律令時代に海道と称された沿岸部の移動経路があり、鎌倉時代に通された中路、奥大道を前身として江戸時代には奥州街道(蔵王連峰を源とする白石川に沿う)が整えられ、阿武隈川の舟運も発達し、その河口の荒浜湊で東廻海運に連絡されました。成田地区を通る道から西隣りの村田町へ紅花や藍などの農産物を運び、それらは村田から宮城-山形間を結ぶ笹谷峠を経て北村山郡大石田町へ運ばれ、同町より最上川舟運で酒田湊(酒田市)へ下ろされ、西廻海運へ連絡される流通経路もありました。

 

写真2 羽山を望む

亘理町荒浜藤倉、阿武隈川右岸から西方、同川が阿武隈山地と高館丘陵の間を抜け出てきた奥の羽山を望む。2019/07/25 撮影

このように広域流通の陸の結節点村田、海の結節点荒浜湊の間を陸上輸送と河川舟運でつないだ位置、不利な条件を含みつつも地形や方位に合わせて作物を選び気候を生かした農業の工夫などがあり、柴田町に多くの中世城館が構えられ、近世には仙台藩の最上級家臣が拝領する要害が船岡に置かれることになったと考えられます。成田地区は、近世には柴田郡北方二十村の一つ成田村として、船岡の柴田家の知行地とされるなどの歴史を経てきました。
明治20年(1887)には鉄道が通されて交通の要衝としての性格が引き継がれ、昭和14年(1939)に設けられた第1海軍火薬廠の第二次世界大戦後の跡地には工場群が誘致されて、柴田町は現在のようになってゆきます。町のこれまでをこうして振り返ると、丘陵に囲まれたなかで二つの川が出会って海岸へ抜け、太古には海が入り込み、海が引いた跡に低地が残り、太平洋の影響を受けて温暖な海洋性気候下にあり、交通、流通の利便性を兼ね備えていることが、おおよそどの時代の人々にも生かそうとされ、不便は解消しようと努められてきたことがわかります。

 

写真3 羽山中腹の株式会社サカモト社有林。

スギ、ヒノキ植林に自生するケヤキ、ケンポナシなどは生長させて材とし、生物多様性保全にも資する。2018/07/24 撮影

宗教学者薗田稔は、風土を「自然条件にたいして人間が生業を通して働きかけた成果」と定義しています。「人間が何世代もかけて自然に働きかけて風土を仕立て、その風土がまた人間を育て上げる」とも、薗田は述べています。風土は、そこに暮らし働きながら人びとがつくり上げ、思いをかけ、共に観ている生きる世界とも考えられます。そして、地域の社寺を中心として神仏が由来する自然に畏敬の念を抱き、祭祀を行うなど信仰を共にしてきたことが、人びとが風土を共に観ることに大きく結びついているといえないでしょうか。
成田地区周辺の信仰にも、一帯が地形的に交通の小さな要衝となったことが影響しているようです。小成田地区の羽山は、東北南部に広がるハヤマ(葉山、端山、羽山。奥山に対して里に近い山)信仰の一拠点となる神社です。羽山神社の主祭神と、日本海岸から東北中・北部に多く見られる白山信仰に基づく海老穴地区の白山神社の主祭神は、大きくは同じく農耕神です。ただし、白山神社は海老穴地区で虫歯の痛みを癒す神とされています。その他にも、全国にあり東日本で濃い傾向にあった狼信仰との関係や白石川流域に複数の白鳥神社がまつられる白鳥信仰などの分布が重なっています。成田地区の八幡神社は、延暦21年(802)に坂上田村麻呂が勧請したと伝わります。同様の由来は、葉坂地区の拆石神社、富沢地区の深山神社、四日市場地区の瀧澤不動尊にもあります。

 

図4成田地区とこれを含む五間堀川集水域の位置

国土地理院「地理院地図」を廣瀬加工、2018年

主に信仰を介した地域の人びとの助け合いの組織には、成田地区では八幡講、山神講、契約講、若者講、精進講などがあります。また、交通に関連して、明治時代の馬頭観音碑が20基ほど地区にあり、同地区の大沼家には東北から関東にかけて信仰される馬の守護神「ソウゼン様」がまつられます。これらの信仰にかかわる催し、祭り、年中行事のときは、人びとは地域の食材を中心に用いて季節の料理をつくり、共に味わいました。「風土を仕立て」る営みにはこのようなことも含まれていました。
「明治41年坂元屋敷の大沼源太郎は坂元植林会社を創設、以来代々植林事業を継承して今日数百haに及ぶ美林が造成されている」。これは、「角川日本地名大辞典」の404頁にある記述です。山の裂け目に海が入り込んだ跡に残された小さな盆地状の土地一角を占める小さな谷、成田地区の風土の内実、水を介した陸と海の間での物質循環や文化は、こうした生業の継承から今に引き継がれてきてもいました。

 

写真4 柴田町成田地区周辺の空中写真(1993/10/28 撮影)

上に遺跡、中世城館跡、寺社 (成田地区内のみ) の位置を示す。空中出典: 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

⒊ 成田地区の自然とつながる暮らし方

〜中間結論 – 海の記憶をとどめる里での暮らし

葉坂地区の御釜、船迫地区の弁天、成田地区内の槻木丘陵の縁に海食崖があることからもわかるように、1万2000年前頃から温暖化と関係して起こった海面上昇、「海進」の影響は成田地区にも及び、それは現在も地形として残っています。

 

図13 成田字坂元前から東北東の方向を望む

廣瀬画、2019年

また、海岸線が当地から13km余り東へ退いて槻木湾が陸地化した後も低地には阿武隈川の後背湿地が広がり、排水不良などの条件から生じる泥炭が堆積し、軟弱な地盤が形成されました。こうした地形、地質、土壌に一面では制約を受けて、成田地区では低地に田を開き、丘陵のすそや谷といった低地より地盤が高くしっかりとした箇所に家屋や蔵、納屋を建て、畑地をつくり、クワや果樹を植えて暮らしとなりわいを営んできました。ただし、その箇所はより広い平野や盆地にある台地や河岸段丘などの高台に比べて狭く、傾斜があり、低地がおおむね東西に伸びていて、これを挟む南北の丘陵の北向き斜面も利用する必要がありました。このため、地形と土壌、水はけ、日照、風、季節などの違いに応じてさまざまな場所でさまざまな作物の選択と栽培方法の工夫が試みられてきました。スギ、ヒノキが植林される以前は炭をつくる雑木が多く、馬の飼料を確保する採草地の場所が決められていて、かつて丘陵の土地利用、植生は現在と同じく全面的に人為が及んでいたものの生物多様性の面においてより豊かであったと考えられます。また、成田地区では「い草の一種を干して編み」ござをつくったと言われています。イグサは、イネと同じく微-弱酸性土壌で良好に生長し、土壌phが低い泥炭が堆積した低地でそれぞれの適地を探して栽培されたのでしょう。泥炭はまた、すくもと呼ばれて燃料にされていました。

 

図14 成田字平城内の農地。

南向きの緩斜面上に排水、作業のための土地改変の手が最低限加えられる(廣瀬画、2019年)

海の影響も受けてかたちづくられた土地は、海洋性気候下にあり、暖地性のユズやイチジクが日照や土壌を選んで栽培されます。南北それぞれに向く斜面で作る作物も日照に合わせて選び、北斜面では夏に収穫する野菜のうちジャガイモや豆類を主に育てています。強い光を避けて育てるコンニャクを北斜面の農地(字坂元脇の五反畑) で栽培した時期もあリました。現在の低地には、田に加えて畑がもうけられます。丘陵のすそや谷では方位や季節ごとに種々の野菜がつくられ、林縁近くに果樹が植えられ、野に近い環境から丘、山に近い環境へ段階的に植生が変化しています。植林では、ケヤキ、ヤマザクラ、ケンポナシ、クリ、カエデ類など自生する落葉広葉樹が生長して材に用いられるまで残され、複層林的な状態を成しています。農地でも林地でも土地改変は抑制して行われ、五間堀川の水源域として丘陵からの物質供給と雨水流出抑制に貢献し得る条件が農地では保たれ、林地では拡大造林政策全盛の頃よりも改善されていると考えられます。こうした土地利用は、地域共同体のつながりを保ちつつ、その節の食材や保存食を味わう食文化と関係が深く、上記の環境貢献にもかかわるその今日的意義を評価の上、合わせて継承を図ることが望ましいと考えます。

報告書の全文はこちらからダウンロードしていただけます。

>>Report_LandscapeMasterPlan_Sakamoto_17.53MB